JR報道について

友達が書いていて、すごく同感したし、ずっと今日テレビを見ながら思っていたこと。ちょっとそれを書きたい。


 私は私立の中学校に通っていたため(詳しくはプロフィール参照)、中学1年生のときからずっと中央線を使ってきた。そのころから、自殺の多い線路で、しょっちゅう電車は止まっていた。特に、私が使用していた高円寺ー新宿間は、とても事故が多かった。
 周りの友人たちは、中央線を使っている人はほとんどいなかったので、遅刻しそうになると、友達に「わかんないでしょう、本当によく止まるんだから」と愚痴をこぼしていた。しかも、痴漢も頻発していた。中学生のころの私には、性的魅力など何一つなかったと思うのだが、パンツを下げられそうになったことまである。とにかく、トラブルの多い電車だったのだ。だから、「中央線は全く」とよく言っていた。


 しかし、留学したときには、交通手段など何もない地域に住んでいた。バスは1時間に1本で、一日で9本しかなかったような気がする。一番近い駅は、30km先にあり、そこに来る電車も確か一日に数本だったと思う。日本でいうなら、おそらく高知県の都市部でない場所あたりをイメージしていただければ良いと思う(決して高知県を卑下しているわけではない)。もちろん同じスペインでも、マドリッドに行けば東京と同じくらい電車が運行されていたので、これは国際格差の問題ではないことを強調しておく。


 同じ日本でも、電車の通っていない地域はある。そのことはうっすらと知っていたけど、留学するまで実際にどんなものだか知る由はなかった。その後大学で、非常に大変な思いをして通学する友達ができて、ますます自分の乗っている電車の便利さを痛感した。いつもぴったりの運行を望んで家を出る自分も、ちょっと恥ずかしいな、と思うようになった。そして毎日時間通りに来て、時間通りに到着する私が乗っている区間を、本当にすばらしいと思うようになった。


 性的魅力がなくなったせいか、痴漢には遭わなくなった。自殺の件数も、気のせいか減ったように感じる。もちろん、利用者の多い山手線が止まったのは、首都圏にとって大きな痛手である。ただ、事故が未然に防げたという考え方もできるのではないだろうか。もし、あのまま運転を続けていたら、と思うと恐ろしい。私は見つけた運転手に金があったら報奨金でもあげたい気分だ。


 昨年の今日、福知山線の事故でなくなった方の遺族は、山手線がストップしたのをみてどうお感じになられたのだろうか。「JRは変わっていない」とか「JRはやはり駄目だ」とか、本当にそんな感想だろうか。確かに、JR西日本の方は、遺族の方々に対してきちんと謝るべきだと思う。しかし、もしかしたら、「同じことが起こらなくてよかった」と思っていらっしゃるかたも、いるのではないだろうか。


 報道の仕方が、あまりにJRのひどさを責めるばかりで、唖然としてしまう。最近報道を見る度に思うのだが、そんなに報道機関は独立行政法人や、元国家の機関を迫害したいのだろうか。もちろん、それらには問題がないわけじゃないことは判っている。問題のない場所なんてどこにもない。報道機関の使命が「権力監視」というジャーナリズムの原点であることだって、わかっている。けれど、もう少し自省的になろうとしたっていいんじゃないか。スピードを最も求め、促進してきたのはメディアである(もちろん資本主義の原理、という側面もあると私は思うのだが、ここではそうした考えは割愛する)。責めるべきは、JRではなく、それを求める側だ。私たち自身だけではなく、過度に激しく時間の節約を望む社会の風潮そのものを反省するべきではないか。


 以前、OB訪問に行った際、大変鼻持ちならない共同通信の記者の方に会ったことがある。しかし、その方は大変素晴らしいこともおっしゃっていた。彼は「ニュースは命だ」と言った。そして「ニュースは、それを今後に活かして、命をつないでいくきっかけになる。だからニュースは命なんだ」と言っていた。その日、私は彼の話し方に一貫して憤慨していたが(もしかしたら、向こうも年末に呼び出されて憤慨していたのかもしれない)、この瞬間だけは納得した。
 彼の言う通り、もしもニュースが命であるならば、福知山線の事件も、この山手線のストップも、ただのヒューマンドラマにしてはいけないと思う。自分で反芻して、生き方を考えたりするべき事件なのではないだろうか。


 でも、かくいう私も、相当時間とかうるさい。やっぱり電車遅れたらそれなりに腹立つし。そういうことに対して、偏屈なほどにこだわるっていうのはやめたいとは思っている。