職業としての政治

職業としての政治 (岩波文庫)

職業としての政治 (岩波文庫)

1919年1月にウェーバーが「自由学生同盟」という学生団体のために行った公開講演をまとめたもの。国家統治という意味での「政治」の特性や社会状況を語っている。
始めに、政治における支配の正統性の根拠として、3つがあげられている。ひとつが、習慣的に行われてきて、それを守ろうとする態度が残っている家父長制度や家産領主に代表される伝統的支配である。次が、カリスマによる支配で、これは人格的な帰依と信頼に元ズいている。もうひとつの支配は合法性によるもので、制定法規の妥当性に対する信念と、合理的に作られた規則に依拠した権限に基づいている。このとき、服従は法規の命ずる義務の履行という形で行われる。
どんな支配機構も、継続的な行政を行なおうとすれば、支配者に対してその他の人々が服従するよう方向付けられていることと、いざという時におこなう物理的暴力を実行できる物理的条件を掌握していることが必要である。そのひとつとして、支配を行う指導者より、重要なのは指導者の補助をする側だ。彼らこそ、外に向かって政治的支配機構の存在を表示するものである。彼らが権力者に服従するのは、先ほど述べた正当性の観念に加え、物質的な報酬と社会的名誉があたえられるからである。他の物理的条件、すなわち物財は、支配者自身が持つものであり、スタッフによって管理されることが必要とされる。
さて、政治を職業にする人というのは、大きく分けて6つある。第一には、政治や経済上の顧問としての立場として利用された、かつての聖職者だ。第2は、文人=読書人である。特に東アジアでは、中国のように科挙が行なわれ、人文主義的な人々が政治家となった(西洋にはこうした立身出世のチャンスはなかった)。第3は宮廷貴族。第4はイギリスに特有で(?)、小貴族と都市在住の利子生活者を含む都市貴族である。もともと彼らは国王が地方の豪族に対抗して見方に引き入れ、自治体の官職に就かせた。第5は大学に学んだ法律家。彼らは西欧で中世以降の訴訟の合理化の影響下で発展した訴訟手続の中から発展的に出てきた。利害関係の調整のために、なくてはならない存在だ。そして最後に、ジャーナリストがいる。彼らは政治家と付き合いながら、逆に彼らを調査していくという役割を担う。一部のジャーナリストは、政党職員という形態で職業政治家になることもある。
権力者が定期的に選ばれるようになると。共通の利害関係者によるてきばきとした運営が行なわれるようになる。政党の誕生である。これによって、有権者を政治上の能動分子と受動分子とに分けることになった。世話人等の活躍により、政党は地方支部をも作り、ネットワークを高めて統一的な宣伝活動を行う(これは、現在の選挙活動の基礎とも言える)。そしてこれこそが、人民的投票形態である。
指導者を選択する基準としては、デマゴーグ的な雄弁の力が必要とされる。また、アメリカによく見られることだが、自分の計算と危険において票を集める政治上の資本主義企業家が必要とされる。
倫理的な面から政治を捉えると、過去の責任問題の追求となり不毛である場合が多い。無差別的な愛を求めるキリスト教の倫理は、時に政治の論理とは逆を行く。この違いは心情倫理と責任論理の矛盾である。心情倫理とは、自分の中で決めた準則の下に行為することであり、責任倫理とは予見しうる結果の責任を負うべきだという考え方だ。また、「善い」とされる目的を達するには、大抵は道徳的にいかがわしい手段を用いて、悪影響等も覚悟してからかからなければならない。こうした状態のなかで、心情倫理を貫き続けられるか?
政治行為には常に暴力的手段が伴う。しかし、倫理的な大義があるときには、行為者(施政者)は暴力の存在に気づいていない。


普通に政治の暴力性を古典的に解釈したくて読んだのですが、新聞記者になるものとして本当に読んでよかった。何かを行使し、強制するということは、暴力が働いているということ。いつも何かの形で暴力が働いている。どんなときでも。そのことは忘れてはいけない。
政治に関しては、まあ議員バイトとかしていたのでそのあたりでわかってますよって感じだった。