問題関心まで

 私は生まれてくるはずのない子どもだった。医者に「子どもが生める身体ではない」と言われた母には、胎児(=私)より大きな筋腫があり、子どもはそれに押しつぶされるだろうと思われていた。
 どうしても子どもが欲しかった両親は、二人で協力して絶対安静状態にして、栄養のありそうなものを食べたりして、子どもがなんとかして育つようにした。最終的に、胎児は育った。医者が帝王切開で子どもを取り出す日を決めて、母のおなかを切った。取り出しても泣かなかったので、医者が頭を振って泣かせた。泣いたので、生きていることがわかり、両親は大変喜んだ。それが私だった。


 母は「これ以上子どもを産んだら死にます」と言われた。私は必然的に、父と母の間に生まれたただ一人の子どもとなった。当たり前だが、第一子で育て方もよくわからない彼らは、過度にミルクを与えて異常なスピードで子どもを太らせたり、赤ん坊を抱えて走って笑わせて、その声を録音したりしていた。仕事を辞めた母親は、ことばをなかなか話さない子どもに読み聞かせをし続けた。カメラマンである父親は、英字新聞を買ってきて子どもをその上に置き、股にポトスの葉っぱを置いて記念撮影を行なった。きっと、想像以上に過保護な親だったのだろう。


 そんな両親が私に望んだのは、私より14歳年上の従姉よりも私が「素晴らしい」子どもになることだった。本人達は「全く気にしていない」というが、絶対にそんなことはないと思う。私はいつも、彼女と比べられている自分を感じていた。なにかとあれば、彼女の名前が出てきた。
 彼女の経歴を説明しよう。彼女は母の兄の娘だ。パラサイトシングルだった母にとってはまるで実の娘のようだった(当時母はまだ結婚していなかった)。遊園地にも買い物にもドライブにも連れていったらしい。彼女の両親は共働きで、彼女はいつも一人だった。小学校に行けば行ったで給食費も時に滞っていたそうだ。しかし、彼女は逆境に耐え、楽器を習わせれば誰よりも上達したし、勉強は誰よりもできた。それは父親である母の兄の方針で、教育に関しては厳しく、海外からの遠征から戻ると娘に英語を教えたりしていたそうだ。
 彼女は小六から日能研に通い始め、成績は優秀だった。母はたまにその送り迎えもしたらしい。日能研の月謝は滞り気味だったが、国立中学合格確実の彼女には優しく、待ってくれたらしい。そして彼女は予想通り国立中学に入学した。
 このあたりで晩婚の私の母は嫁に行った。従姉は泣いて悲しがったという話だ。その後もモデルのマネをする傍らで面倒を見ていたらしい。二年後生まれたのが私だ。
 つまり、私が物心ついたときから、彼女は優秀だったのだ。その後追いをするかのように、私は英語を学んでいた。両親曰く、テレビで「セサミストリート」を見て、とても興味を持ち「私も同じくらい英語を学びたい!」と言ったそうだ。
 そして、私が小学校にあがる前に、彼女はベルギーに留学した。今思えばその頃から、私の異常なほどの海外志向は強まったのだと思う。もちろん、両親が望んだのもあるだろうが、私自身として追いつき、追い越したいと思ったのだ。


 年代としては、1989年ごろで、まだバブルもはじけていない頃だったと思う。
☆この部分は本を読んで補強☆
カメラマンという父の仕事が最も儲かる時期で、経済的にも私の思考を伸ばす余裕はあった。私は、幼稚園は友達も通う仏教系私立に通い、制服をピシッと着ていた。母は小さいころ従姉が幼稚園に行けず小学校に入ってから辛い思いをしたことを知っていたから、娘には楽しい幼稚園生活を望んだ。
 私が小一の時、従姉は大学受験をする。塾は好調な成績のため学費は免除されていた。しかし彼女は予想に反して「ワセダ」にしか受からなかった。当時私は「ワセダ」が何か知らなかった。従姉はどうしても「灯台」がよかったらしい。私は何故そんなに灯台が魅力があるのか理解に苦しんだ。海の側はそんな楽しいのか、と。
 翌年彼女は「灯台」に進学した。私は相変わらず英語を習っていた。彼女は英語も堪能らしく、習っても才能が限られている私とは違った。母は私に英語を書く力がないと言っては嘆き、私はその度に英語を習う場所を変えた。
 その他にも、習い事は週四回していた。どれも自分でやりたいと騒いだ。両親は好きなことは何でもしろと言っていた。そして、塾には行くなと言われた。私はあれもこれもと望んだので、何も望まなかった従姉とは正反対だった。兄弟がいたわけでもないので、両親はとにかく自由奔放に私を育てたかったらしい。

 
 しかし、私は自ら希望して塾に行くことにした。通信教育で小学校の勉強を完璧に予習・復習していたので、学校はつまらなくて地獄のようだった。塾は点数だけで単純に評価されるので、先生の主観的な評価で酷評されていた私には天国だった。友達も成績で高く評価してくれて、優しかった。ここであれば、成績で人を呼ぶことができた。それが私にとって、楽な方法だった。座学以外は、努力してもできなかったし、周り(特にこの場合は、友人たちを指す。彼らは、学業のできる者が家庭科などの科目をやることを望まなかった)もそれを望んでいなかったようなので、やらなかった。これで分業が成立しているのだと、子ども心に思っていた。
 明るく文武両道で、家事もばりばりするような子を望んだ両親の期待とは微妙に異なる子どもだったが、大学を卒業していない両親は、自ら「外交官になりたい」「裁判官になりたい」と言って勉強する子どもに期待した。かけた金との比較で見れば大した事ないのだが、周りの人は「才能がある子どもだ」とちやほやした。
 従姉の話に戻ると、初めは国家公務員第一種を目指したが後に断念し、四年の秋に「東大」だというだけで有名信託銀行に入る。その頃私はやっと「灯台」=「東大」だと知る。塾に行くと、一番頭いいやつは両親東大だった、などと周りが口にしていたからだった。学歴のピラミッドを信じていたわりには、自分の満足度だけを中心にして考えていたので、名声には微妙に興味がなかった。周りの人は、好きかどうかとは別で「進学率」をふりかざしていた。決めていたのは、従姉の通った国立には行かないということだけだったので、私には興味がなかった。とりあえず、国際的な雰囲気で自由な学校に行きたいと思ったので、S学園という、親が勧めた学校のうちの一つに決めた。複数の学校に自分で何度も足を運んだ学校の中で、非常に雰囲気も気に入ったからだった。でも国立に受かる自信はあったので、受けるだけしようと思った。そうして捨ててやれば、かっこいいかもしれないし、従姉以上にもなれるからだった。
 野望は実現した。父の携帯に「本当に入学辞退なさるんですか」と繰り返し連絡が来た。


 学園にいくと、母は「…わかってたけど学費高いねぇ」と呟いた。ならば始めから娘に勧める選択肢として与えなければよいのに、とは思うが、彼女としてみれば当然の気持ちかもしれない。その発言には、全ての学校を公立で済ませた従姉と比較している様子が感じられた。私の中では、従姉を超えなければいけない、という気持ちが日に日に高まっていった。
 そのうちの一つが、高校生のうちに留学しなければいけない、ということだった。完全に競合はしないように、そしてひけを取らないような国として、スペインが選ばれた。スペインであれば、中南米でもことばが使われているし、ヨーロッパなので世間体もよいし、条件は良かった。また、少し前にイギリスに語学研修に行った際に、8カ国語を操るバスク人の女の子と親しかったのも、スペインに行きたいという思いを一層高めた。語学をたくさん話せれば、きっと広い世界で活躍できると信じて疑っていなかった。

 そうして私が留学した地域は、Generalidad Valenciana(バレンシア自治区)と呼ばれる地域の田舎だった。ドイツからの観光客や、国内の都市(バレンシアバルセロナマドリッドなど)からの観光客の非常に多い場所だった。私のホストファミリーは、町や村からは離れた幹線道路沿いにあるキャンピング場*1を経営している大富豪だった。ホストマザーは、英語歴10年を超える私に、娘の英語家庭教師としての役割と遊び相手になることを期待していた。ちなみに、この娘は当時11歳だったので、私よりも5歳年下だった。

*1:参考URL: http://www.campinglamarina.com/
私が滞在していたところのホームページ。